ソナタ「陪臚」

雅楽曲の構成は、わりとシンプルに見えます。
私は笙吹きなので、唐楽の早楽(はやがく)と二三の延楽(のべがく)についてですが、20行ちかくある曲でも典型的な二部形式(a-a’-b-a’)だったりします(「春鶯囀:しゅんのうでん」「蘭陵王:らんりょうおう」等)。

 

その部分部分もよくみると、僅か2小節の動機(モティーフ)、それを受けて4小節にふくらました小楽節、更に倍の8小節(=1行)に伸ばした大楽節と、入れ子のように成っている曲が次々と見つかって小躍りしました。これって洋楽と同じじゃないか、と。

 

あとは大楽節を更に発展させたり、対比する雰囲気の部分を作ったり。これらも古典的な洋楽の手法と同じく、完全5度上=完全4度下をなぞる(「十下乙」のフレーズの後に「凡工一」のフレーズを出す)とか、平調(ひょうぢょう)の後で近親調である黄鐘調(おうしきちょう)に転調する(「平調越殿楽」)など。

 

そもそも「十下乙乙八七」などの各調の止手(とめで)が、洋楽における和音の「終止形(カデンツ)」というやつそっくりで、「なーんだ、そーゆーことだったのか」といささか拍子抜けの感です。それまでは、雅楽は複雑怪奇な音楽で理解することは不可能と思っていました。

 

ちなみに、六つの調の止手は洋楽の分類だといずれも「半終止」なので、雅楽曲の終わりはふんわりした雰囲気なのだと思います。もし「乙七八」または「八七乙」の順なら、完全終止の響きでしょう。

 

でもこのことは、考えてみると当たり前かもしれません。西洋も東洋も同じ物理原則に従う「音」によって美を追求する。それを聞く耳も判断する脳も同じヒト科のもの(イルカが聴くならずっと低音がお好み?)。西洋音楽と東洋音楽にある種の「普遍」が存在するのは当然でしょう。また雅楽の完成は1000年前、洋楽のクラシックは高々200年前。時の流れと文明文化の発展を考えれば、1000年昔の音楽が複雑だった訳がありません。(音楽における各種旋法、言語における名詞の格変化や動詞の活用など、複雑なものから単純なものへと推移してきた現象もありますが。)

 

そこでソナタ形式です。洋楽においては究極の完成された楽曲形式とみる人もいます。人間精神の一つの到達点には違いありません。中学校の音楽教科書にも載っているくらいですから、音楽を志す者としては取組み格闘する価値があるでしょう。でもいきなりベートーベンのピアノソナタを教材にして、中学でこれを勉強するにはあまりにも複雑すぎます。

 

その点「陪臚(ばいろ)」は如何ですか。6拍を1小節とみれば、4小節を単位とするソナタ形式そのもの。「序奏」「提示部」「展開部1」「展開部2」「再現部」「コーダ」と整然としています。まあ完全なソナタ形式とは異なり主題は1つだけですが、曲には一音たりとも無駄な部分がなく、八分音符より細かい動きもないので、幻惑翻弄されることがありません。実にシンプルで見事です。旋律ははっきりと印象的だし、調性も自然なホ短調に聞こえ、洋楽とほとんど違和感がありません。音楽の教材にはむしろ最適だと思います。

 

「1000年以上も前の、今となっては無名の東洋の音楽家が、200年前になって西洋の作曲家がようやく到達した普遍的な美を既に実現していたのだ」ということを見出した時は、涙が出るほど感動しました。 SS 

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